column

秋の銀杏並木。

汗ばむ陽気と肌寒い空気が共存する季節の変わり目である。

 

常に可変する空気に敏感になる、四季を持つ国に生を受けたことはとても幸せなことだ。

 

夏は暑くて秋が恋しくなるし、
冬ははるのおとずれを心待ちにしている。

 

毎日の洋服が改めて楽しくなるのは春や夏だし、
明方の空気の抜け感が美しいのはやはり冬である。

 

季節というものは、この国では常に移り変わっている。

 

いつからだろう。

 

銀杏が秋の味覚として楽しみになったのは。

 

焼き鳥屋にいくと、かならず銀杏を頼んでしまう。
昔はあんなに苦手だったのに。

 

大人になるにつれて人の味覚の好みは変わっていく。

 

好みは絶対なものではない。

 

 

季節と年齢と文化と。
時間と共に可変していくところに季節の味覚の面白さはある。

 

空気の透明度や粒子を、四季を通して感じること。

 

 

秋の銀杏並木。

 

目を閉じると銀杏の香りがする。
目をあけると、まだ緑が目の前に広がっている。

 

可変で動的な気配の中に、二極化できない曖昧な美しさがある。

フィルムカメラとスナイパー。

もう何年もすると、世界中のデータ記憶容量を写真の容量が上回るという。

 

スマートフォンのカメラは、世界の大部分を写真媒体で埋め尽くし、
ネットインフラはそれらの即時な共有と派生を可能にした。

 

一方で、一枚一枚の写真に込められた背景と儀式性は、
膨大な量の写真の中に、少しづつ埋もれていってしまった。

 

もう、十数年も前。

まだ、僕が写真専攻の学生だったときのことである。

 

沢木耕太郎や開高健、辺見庸といった紀行文に触発された僕は、
人生の夏休みともいうべき大学時代のまとまった休みをさだめては、
フィルムカメラを片手に世界の、それも敢えて発展途上国を選んで、
少しだけリスクをもとめたバックパッカーを気取っていた。

 

ジャーナリズムフォトグラフとして、
世界の写真界に名を馳せる写真家集団Magnumよろしく、
ストリートチルドレンや、所謂資本主義経済の被害者とでもいうべき被写体をもとめて
決定的瞬間とやらを狙う旅をくりかえしていた。

 

現地に深夜に到着する格安航空券を取り、
その日の夜も決めない。

 

そんな計画性のない旅がほとんどだった。

 

そんな旅を始めたばかりのころ、
意気揚々とカメラを構え、ファインダーをのぞき、シャッターにのせた人差し指が、
どうにもおちていかない不思議な感覚に陥った。

 

フィリピンのとある街。

 

教会の前で片脚のない男性が、物乞いをしている。

 

気負ったぼくは、さぁ、これは、シャッターチャンスだと言わんばかりに彼にレンズを向ける。

 

だが、ファインダーを覗き、いざ右手の人差し指を押し込もうと思ったが、その指がおちていかない。

 

意識はシャッターを押そうとおもっても、無意識がその行為を妨げる。

 

フィルムカメラの、シャッターを押すこと。

 

それは、常に可変で流れ続ける時間の中で、
自分自身の意志でその時間軸を、
シャッターをおしたその瞬間に自分自身の時間軸に取り込み、
切り取る行為である。

 

大学時分のぼくには、それはまるで、安全な場所から遠くにいる可哀想な人々を、
人さし指1つでモノのように撃ち抜いていくスナイパーであるかのような、
そんな気分になってしまったのである。

 

今、この瞬間、悲惨な現状を自身のこころの機微1つで、
平面に定着させてしまうこと。

 

そのとき、彼らのその状況を銃でうちぬいてしまうような感覚である。

 

そのため、ノールック、つまりファインダーをのぞかず、
ピントも合わない状態で気配だけをすくい取ることしかできなかった。

 

シャッターが、ガチャン、とおちるその音は
世の中を撃ち抜く発泡音のように、
身体性を伴ってフィルムに光を焼き付ける。

 

最近また、ポケットにフィルムカメラを忍ばせている。

 

あのとき出会った人たちは、
今は何を思い、何をしているだろうか。

 

元気でやっているだろうか。

 

かつて切り取ったぼくの時間軸に交錯した1つの時間のことをおもいながら、
今日もフィルムに新たな光を焼き付けるのである。

胡桃

出先で思わずお腹がなりそうなとき、
何かしら腹に入れるべきだとおもいコーヒーをグビッといくと、
お腹が逆にコーヒーの刺激で活性化されたのか何なのか、
グルルルと意図せずなき始めたりして大変恥ずかしい。

 

お腹がなって恥ずかしいのは、女性は僕の比ではないようで、
グミやらお腹をなるのを防止することをうたったお菓子やら様々な商品が
スーパーの棚には並んでいる。

 

くるみ割り人形は、チャイコフスキー3大バレエの1つである。
ドイツの作家ホフマン原作のくるみ割り人形をプレゼントされた少女の夢の物語。
くるみ割り人形は、王子様である。

 

毎年色々なものをおくってくれる農業を営んでいる友人が何名かいる。
少し前、胡桃をたくさんいただいてしまった。

 

くるみ割り人形はぼくの家にはないのではあるが。

 

いただいたときに調べたら、胡桃は割らなければ一年もつということを知って、
なんとなく放置してしまっていた。

 

流石にそろそろまずいのではないか、なんておもっていたのだが、
お盆で暇を持て余していた昼下がり、
ハンマーで割ってぼってりとした中身を取り出し、ローストにしてみることにした。

 

胡桃は木の実の中でも特別な存在感を発してる。

 

ナッツ界の八方美人だと、
ぼくがか勝手に思っている落花生に比べたらかなりの大奥感だ。

 

バーで取り敢えずだされるナッツ盛りの中でも、
胡桃とそれ以外といったような佇まいである。

 

とすると、落花生人形もピーナッツ人形もどうにも腑に落ちない。
やはりくるみ割り人形である。

 

ぼくらが食べる部分は、仁という胡桃の種を割った中のこと。

 

そういえば、昔たまに梅干しの種を割って中の柔らかい白い部分を食べている子がいたけれど、
くるみはみんなそういうかんじで食べているのだ。

 

とかんがえると、簡単にたどり着けない大奥にひとは物語を見出してきたのだろう。

 

困難のなかにある物語こそ輝きを増すし、
案外あっさり割れる落花生割り人形が、王子様だとどうにも締まりがないものね。

 

そんな胡桃を最近ジップロックにいれて持ち歩いている。

 

木の実は空腹に効くらしい。最近じゃ、ダイエットとしても、注目されているとか。

 

少しだけ朝ごはんの早い月曜のお昼前。

 

まだぼくのお腹は鳴り続けている。

虹霧

休みの日も早く起きるようになってしまったのは、
大人になったということだろうか。

 

夏の日差しがリビングの窓からジリジリと差し込みながらも、
まだ最高気温まではもう少し、みたいな朝の空気。

 

太陽が本気を出す前の肩慣らしのような感じがして、
音楽家の本番前の舞台袖を垣間見たような感じと同じように、
その空気を味わっているのが少しだけ得したような気になる。

 

今日はどれだけ暑くなるかな、
なんて思いながら外の空気を肌で掴み取りたくて、着替える前に寝ぼけ眼でベランダに出る。

 

ベランダに置いてある多肉植物たちに水をあげる。

 

ベランダ用のシャワーの口にはいくつか種類を切り替えられるようになっているのだが、
僕はいつもシャワーを『霧』であげている。

 

ごくたまに。

 

本当にたまにだけど、空気と太陽と僕の霧が
なんらかの偶然によって、虹を見せてくれることがある。

 

音楽家が舞台袖でぼくだけに特別に一曲弾いてもらったかのような幸福感。

 

積み重ねてきた努力と経てきた時間の積層。
動的なそれらが一点に集中して弾ける前の一瞬の静けさ。

 

早起きは三文の得。

 

何て言葉が思わず頭をよぎるのもそんな時。

 

人も自然も、最近はそんなところに視点がいくようになった。

 

「暑いというと暑くなるから、暑い時は寒いって言おうぜ!」

 

なんてちびまる子ちゃんにでていたようなセリフを日常的につかっていたぼくがそんなことを思うんだから、
やはり少しだけ大人になったんだろう。

 

「虹」は夏の季語である。

物語と詩

詩は、言語の表面的な意味(だけ)ではなく美学的・喚起的な性質を用いて表現される文学の一形式である。
多くの地域で非常に古い起源を持つ。

 

物語のその先、みたいな事を少し前から考えている。
古典文学の中に人間の心の機微や物語性がある程度描ききられているような気がしている。

 

物語が人間を描く、と仮に定義するのであれば、
人間の本質というものは有史以来基本的には変わっていなくて、
どんな時代も、恋人に嫉妬もすれば、成功者のマイノリティに憧れもすれば、圧倒的な懐の人に尊敬もすれば、
愛する人の不幸に悲しみも、憎みもする。

 

今変化しているのは設定の変更が多いような気がするのだ。

 

現代と古典時代を比較すると、現代の方が理性や制度が発達している分社会的な文化が成熟しているので
人間としての欲や本能は抑圧されている気がしている。

 

対して、古典は人間が素直だ。

 

なので、落語に出てくる江戸時代の与太郎じゃないけれど、
古典の中には人間の物語のアテンションの振れ幅が大きく、感情のベクトルが激しいものが散見される。

 

そんな古典的物語に現代の設定を当てはめると、
現代でもとても魅力的なコンテンツとして成立することは、
今も昔も、やはり人間は人間の変わらぬ機微に心動かされるということなんだろうね。

 

さて、話を戻して物語性の行く末を考えていくと、
上述したように古典の中に一定量の物語の限界があるとおもっているので、
一旦既存の文法を脱却しないと次の物語は描ききれないのではないだろうか、と思っている。

 

言葉というものは、概念化された意味を伝えるためにある。
(概念の詳細についてはまたどこかでまとめようとおもうけど)

 

構造化、概念化された言語を用いた物語性を次の物語に進めるためには、
まだ概念化されていない、構造化されていない部分から潜在的な次の物語を掘り起こす必要がある。

 

『詩に意味を求めるから、詩がつまらないものだと思われちゃう。』

 

と、谷川俊太郎もいっているけれど、詩は既存の言葉の概念からいかに自由に、脱却するかということが詩の方向性の一つとして存在する。

 

言葉から自由になって、言葉を描くこと。

 

最近詩を読んでいる。

トップに戻る