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フィルムカメラとスナイパー。

フィルムカメラとスナイパー。

もう何年もすると、世界中のデータ記憶容量を写真の容量が上回るという。

 

スマートフォンのカメラは、世界の大部分を写真媒体で埋め尽くし、
ネットインフラはそれらの即時な共有と派生を可能にした。

 

一方で、一枚一枚の写真に込められた背景と儀式性は、
膨大な量の写真の中に、少しづつ埋もれていってしまった。

 

もう、十数年も前。

まだ、僕が写真専攻の学生だったときのことである。

 

沢木耕太郎や開高健、辺見庸といった紀行文に触発された僕は、
人生の夏休みともいうべき大学時代のまとまった休みをさだめては、
フィルムカメラを片手に世界の、それも敢えて発展途上国を選んで、
少しだけリスクをもとめたバックパッカーを気取っていた。

 

ジャーナリズムフォトグラフとして、
世界の写真界に名を馳せる写真家集団Magnumよろしく、
ストリートチルドレンや、所謂資本主義経済の被害者とでもいうべき被写体をもとめて
決定的瞬間とやらを狙う旅をくりかえしていた。

 

現地に深夜に到着する格安航空券を取り、
その日の夜も決めない。

 

そんな計画性のない旅がほとんどだった。

 

そんな旅を始めたばかりのころ、
意気揚々とカメラを構え、ファインダーをのぞき、シャッターにのせた人差し指が、
どうにもおちていかない不思議な感覚に陥った。

 

フィリピンのとある街。

 

教会の前で片脚のない男性が、物乞いをしている。

 

気負ったぼくは、さぁ、これは、シャッターチャンスだと言わんばかりに彼にレンズを向ける。

 

だが、ファインダーを覗き、いざ右手の人差し指を押し込もうと思ったが、その指がおちていかない。

 

意識はシャッターを押そうとおもっても、無意識がその行為を妨げる。

 

フィルムカメラの、シャッターを押すこと。

 

それは、常に可変で流れ続ける時間の中で、
自分自身の意志でその時間軸を、
シャッターをおしたその瞬間に自分自身の時間軸に取り込み、
切り取る行為である。

 

大学時分のぼくには、それはまるで、安全な場所から遠くにいる可哀想な人々を、
人さし指1つでモノのように撃ち抜いていくスナイパーであるかのような、
そんな気分になってしまったのである。

 

今、この瞬間、悲惨な現状を自身のこころの機微1つで、
平面に定着させてしまうこと。

 

そのとき、彼らのその状況を銃でうちぬいてしまうような感覚である。

 

そのため、ノールック、つまりファインダーをのぞかず、
ピントも合わない状態で気配だけをすくい取ることしかできなかった。

 

シャッターが、ガチャン、とおちるその音は
世の中を撃ち抜く発泡音のように、
身体性を伴ってフィルムに光を焼き付ける。

 

最近また、ポケットにフィルムカメラを忍ばせている。

 

あのとき出会った人たちは、
今は何を思い、何をしているだろうか。

 

元気でやっているだろうか。

 

かつて切り取ったぼくの時間軸に交錯した1つの時間のことをおもいながら、
今日もフィルムに新たな光を焼き付けるのである。

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