column

物語と詩

物語と詩

詩は、言語の表面的な意味(だけ)ではなく美学的・喚起的な性質を用いて表現される文学の一形式である。
多くの地域で非常に古い起源を持つ。

 

物語のその先、みたいな事を少し前から考えている。
古典文学の中に人間の心の機微や物語性がある程度描ききられているような気がしている。

 

物語が人間を描く、と仮に定義するのであれば、
人間の本質というものは有史以来基本的には変わっていなくて、
どんな時代も、恋人に嫉妬もすれば、成功者のマイノリティに憧れもすれば、圧倒的な懐の人に尊敬もすれば、
愛する人の不幸に悲しみも、憎みもする。

 

今変化しているのは設定の変更が多いような気がするのだ。

 

現代と古典時代を比較すると、現代の方が理性や制度が発達している分社会的な文化が成熟しているので
人間としての欲や本能は抑圧されている気がしている。

 

対して、古典は人間が素直だ。

 

なので、落語に出てくる江戸時代の与太郎じゃないけれど、
古典の中には人間の物語のアテンションの振れ幅が大きく、感情のベクトルが激しいものが散見される。

 

そんな古典的物語に現代の設定を当てはめると、
現代でもとても魅力的なコンテンツとして成立することは、
今も昔も、やはり人間は人間の変わらぬ機微に心動かされるということなんだろうね。

 

さて、話を戻して物語性の行く末を考えていくと、
上述したように古典の中に一定量の物語の限界があるとおもっているので、
一旦既存の文法を脱却しないと次の物語は描ききれないのではないだろうか、と思っている。

 

言葉というものは、概念化された意味を伝えるためにある。
(概念の詳細についてはまたどこかでまとめようとおもうけど)

 

構造化、概念化された言語を用いた物語性を次の物語に進めるためには、
まだ概念化されていない、構造化されていない部分から潜在的な次の物語を掘り起こす必要がある。

 

『詩に意味を求めるから、詩がつまらないものだと思われちゃう。』

 

と、谷川俊太郎もいっているけれど、詩は既存の言葉の概念からいかに自由に、脱却するかということが詩の方向性の一つとして存在する。

 

言葉から自由になって、言葉を描くこと。

 

最近詩を読んでいる。

トップに戻る