column

「字体」と「書体」

「書体」と「字体」は異なる。

 

「字体」は文字の骨格であり、情報流通上の普遍的価値を持つもの。
いわば人類の進歩における共有財産である。

 

「書体」は、字体に同じ傾向の装飾、意匠を施したタイプフェイスのことである。

 

書の独自性を考える際も、各フォントの新規設計およびリデザインにおける著作権を考える際も、
ベースフォントを持つロゴデザインの際も、そして、臨書における
著作権の所在についても(それがデジタルトレースであるのか、
アナログトレースであるのか、そのトレース手法に依存するものではあるが。)

 

「書体」と「字体」。

 

上記二つの言葉を区別するところから思考を始めるべきである。

 

これはグラフィックデザイナーが何かフォントを用いたデザインを行う際、
新たにフォントを設計する際には、
常に浮遊させなければならない一つの概念である。

 

 

【判例】
▪︎YAGI BOLD事件

第10条1項 美術著作物(書体・飾り文字等)

 

【著作物性否定判例】
(ヤギボールド事件)ヤギボールド事件(著作物性否定)
「万人共有の文化的財産たる文字等について、その限度で、その特定人にこれを排他的に独占させ、著作権法の定める長い保護期間にわたり、他人の使用を排除してしまうことになり、容認し得ない・・・・情報伝達という実用的機能を期待されたものであり、それがため、そこに美の表現があるとしても、文字等についてすべての国民が共通に有する認識を前提として、特定の文字なり、数字なりとして理解されうる基本的形態を失ってはならないという本質的制約を受けるもの・・・美的創作物とみることはできない」
(写真植字機用文字盤事件)写真植字機用文字盤事件(著作物性否定)
「著作権法の保護の対象となるものがあるとすれば・・・文字が持っている本来の情報伝達機能を失わせるほどのものであることまでは必要ないが・・・・見やすさ、見た目の美しさだけでなく、それとは別に、当該書体それ自体が、これを見る平均的一般人の美的感興を呼び起こし、その審美感を満足させる程度の美的創作性を持ったものでなければならない」「こうした書体の製作や改良の作業には、多くの労力と時間、そして費用を要すること・・・・真に創作性のある書体が、他人によって、そっくりそのまま無断で使用されているような場合には、これについて不法行為の法理を適用して保護する余地はある」(本件では不法行為の成立を否定)

 

▪︎ゴナU事件

0403_大学院卒業

あまり周りには話をしていなかったけど、
この春2年間通っていた大学院を卒業し、修士の学位を頂いた。

 

建築を商業ではなく、人間を通じて学びなおそうと思ったからである。

 

専攻は木造住宅。修士号は芸術修士。
この2年で建築家としての軸足を作ってもらった。

 

 

美とは何か。

 

これはデザインを生業にする自分自身の生涯のテーマだと思っている。
このひとつのヒントを探りに住宅を学ぶため、大学院に通っていた。

 

それは、関心を持った様々な美しさの断片が日常を指し、
そこに住宅が居場所と時間軸を与えていると感じていたからだ。

 

水墨画、生け花は言わずもがな。

 

素材は時間を内包する自然素材にが興味の中心になっていったし、
週末に呑むお酒が一番美味しいと感じるようになった。
眠い目をこすりながらの日曜の家族との朝食の風景はとても美しいものになった。

 

美の本質とは何か。

 

きっとそこに辿り着くためには、僕の人生はあまりにも短い。
だが、それを生涯をかけて追い求める喜びがある。

 

「美しい住宅」の中にあるひとつの要素(それは必要条件でもないし、十分条件でもないが)は、豊かな中間領域、
つまり概念化されていない空間をいかに魅力的に形作れるのか、ということだと感じている。

 

リビングや寝室といった社会的に記号化された空間ではなく、
もっと曖昧で、もっと自由で、生き生きとした気配に満ちた豊かな中間領域。

 

それは中間領域として建築界でステレオタイプ化された軒や縁側、土間といった
住宅としてよく語られるそれよりも、もう少し概念的に広義なものである。

 

中間領域には、基本的には定義がない。
それは、日本古来に由来する「間」の概念にも通じるものである。

 

そこには、意識を投影することのでき、その機能は、時代や家族のあり方によって
多様な概念を包括することができる可能性を持つ。

 

それはつまり、整理しようとしてもできない曖昧概念であり、
0と1のデジタル信号の上にあるのではなく、
0と1の間の無限のグラデーションの中にしか存在しないもの。

 

論理的には説明しきれない、まだ明確な名前と概念を与えられていない生活の余白である。
そしてその、わからないもの、曖昧なものは、余白、気配、空気、間、人間性、禅的宗教性というような
日本人特有の曖昧な美意識に帰結する。

 

以前仕事で、天孫降臨の地、高千穂に足を運んだ歳、宮司が教えてくれた社の話を思い出す。
もともと四方に柱を建て、その上に屋根を掛けただけの社。

 

崇拝する具象は、そこにはない。
ただただ、空虚な空間があるだけである。

 

だが、日本人の精神性はそこに意味を見出した。
ここにはいない神様が降りてくる場所なのだと。

 

そしてその空間に神様が気付いてくれるように、
祭りをし、歌を歌い、踊りを捧げたのだという。

 

意味のある空虚は、四方空間だけを用意し、
そこに神を落としこもうとした神社の社の精神性と同じである。

 

空虚は可能性に満ちていて、潜在的可能性をはらんだ概念である。

 

おそらく住宅における中間領域の一つの本質も、そこにあるのだろう。

 

自然や他者、家族、人、過去と未来、あるいは街。様々な敵対的融合を迎えいれ、
そこに個の感性を受け止め、多様な概念を包括する。

 

限りなくアナログで、多様な繊細さがその空間性にはある。

 

それが、2年間でぼくが木造住宅設計の中に見出した、時代を超えるひとつの美の欠片である。

 

美は、突き詰めていくと生活の中にたどりつく。

 

生活の美しさは全ての美の礎にあり、
住宅とは、その美しさを未来へと運ぶ、透明な美の器である。

 

そして、住宅を設計するということは、
時代の流れの中でその透明な美の器に輪郭を与える、ということなのかもしれない。

 

僕の設計していく住宅は、きっと派手なものではない。
家族の美しい物語を包み込む、豊かな中間領域に溢れた住宅を設計していこうと思う。

 

serif_s gallery 第一回展示「南陽堂書店へ。」

本日、金沢は尾張町にserif s(セリフ エス)をオープンした。

 

“本とギャラリーでつくる、タイポグラフィのある風景”がコンセプトの古書店&ギャラリーとして。

 

とても小さなギャラリースペースだけど、
毎回数枚のオリジナルの作品をつくり、展示していこうと思っている。

 

———-

第一回展示「南陽堂書店へ。」

 

嘗てここは、南陽堂書店という有名な古書店だった。

 

隣でギャラリーを営むオーナーの三田さんがぼくらにくれたのは、
南陽堂書店の二代目当主、柳川 誠さんの遺品であるスクラップブック。

 

そこには当時の広告がぎっしりと貼られていた。
三田さんは、デザイン事務所のぼくらなら何かの参考になるかもと思って、
僕たちにその歴史を託してくれた。

 

だから、ギャラリーとしての初めの展示は、
そのスクラップブックから受けたインスピレーションを作品にすることにした。

 

歴史とは時の滲みの積み重ねである。

 

常に動き続けている時の流れに楔をうち、上書きすることはできない。
滲みを滲みのまま、ほんの少しだけ透明な手を加えること。
未来へ紡ぐ媒介になること。

 

そんなことを思っていたら、イメージの色はどんどん薄くなり、
その透明性はどんどんあがっていった。

 

だから、今回は時の所作で作品を形づくることにした。
スクラップブックから受け取った歴史の欠片に、
わずかに現代の境界線を与え、画にすくい取ること。

 

そんな思いで透明な輪郭と透明な色を置いていった。
この場所に南陽堂書店があったことは全く知らなかったけれど、
ここにぼくらがタイポグラフィの本屋を営むことは、とても偶然とは思えない。

 

欧文フォントの世界では、いわゆる日本語で言う明朝体のことをセリフ体といい、
ゴシック体のことをサンセリフ体という。

 

モダンな印象を内包するサンセリフがモダニズムと共に世界中を席巻しているけれど、
ぼくはなぜか昔から時の流れと痕跡を感じるセリフ体に惹かれてきた。

 

だからこの店は、serif s(セリフ エス)という名前にした。

 

全てのものは美しい時間を纏っている。

石も木も花も、そして本も人も。
ぼくらはその美しい時間を未来につなぐ媒介者である。

 

「南陽堂書店へ。」

 

この展示は、嘗て金沢の誇った1つの歴史ある書店へ、
今を生きる僕たちからの一通の図形書簡である。

 

山崎 晴太郎

 

———-

 

実際に頂いたスクラップブックの現物も、
インスピレーションソースになった元広告と
それに紐づく新たな作品と共にご覧いただけます。

 

金沢に遊びに行く際は是非遊びにきてください。
お待ちしています。

 

serif s (セリフエス)
所在地  :石川県金沢市尾張町1-8-7
TEL/FAX :076-208-3067
営業時間 :平日11:00〜19:00 /土日 12:00 ~ 18:00
定休日  :水曜日
http://serif-s.com/
facebook

 

 

——
This place used to be a famous bookstore called Nayodo Shoten.

 

Mr. Mita, the owner of the gallery next door, gave us scrapbooks left by the second family head of Naoyodo Shoten, Makoto Yanagawa.

 

In them were so many of advertisements of that time. Mr. Mita handed that history to our hands, thinking it might somehow help us who work at a design office

 

So, for the first exhibition as a gallery, I decided to exhibit works that were inspired by those scrapbooks.

 

History is accumulations of the blurs of time. We cannot stake the ever-flowing time down to rewrite it. It is to add just a little bit of transparent touches to the blurs of time, to be a mediator to weave into the future.

 

As I was thinking such things, the colors of the images faded further and further. And they became transparent more and more.

 

So, I decided to create works with the movements of time. It is to add today’s borderlines to the pieces of history I have received from the scrapbooks, and capture them in the forms of paintings. In such thought, I placed transparent outlines and transparent colors.

 

I never knew that there was Nanyodo bookstore here, but it is hard to think as a coincidence that we run a bookstore of typography here.

 

In the world of European fonts, so-called Mincho in Japanese is called Serif. And Gothic is called San-Serif.

 

San-Serif that contains modern impressions has been prevailing ever since the time of modernism, but I have been somehow always drawn to Serif that has traces of the flow of time.

 

So, I decided to call this bookstore ‘serif s’.

 

Everything is dressed in beautiful time. A rock, a tree and a flower. A book and people. We are mediators to pass those beautiful times to the future.

 

“For Nanyodo.”

 

This exhibition is a graphic letter from us, who live today, to a historical bookstore Kanazawa then was proud of.

 

Seitaro Yamazaki

 

160214

どうにも機械が好きである。

 

思い返してみれば、車では2台。バイク一台。自転車2台。カメラを12体。

身体はひとつ。年にひとつは何かしらの機械が新たに仲間入りする。

 

端から見ればただのアホである。

 

年末に増えた機械はフィルムカメラ。
ライカからでたLEICA M-Aというカメラをヤフオクで手に入れた。

 

大学時代の専攻は写真だった。
当時は大学の研究費でラボの現像代を負担してくれたので、

沢山の失敗も含めて数えきれないくらいシャッターを押してきた。

 

1つのレンズを完全に自分のものにするのに、
10000回シャッターを押せ、と教わった。

 

社会人になって、デジタルが隆盛してきて、
ぼくも多くのデジタルカメラを買ってきた。

 

社会人になって初めての賞与は、もらったその日にPENTAX67に変わっていたが、

それが最後のフィルムカメラとなり、その後は、GRやDP merill、5Dm2やLZ5、M8まで、

手に入れたのは全てデジタルカメラだった。

 

でも、デジタルは少し合わなかったみたいだ。

モノという所有欲を満たすものではあったけど、ぼくにとっての道具には結局ならなかった。

 

その理由はきっと、反射の速度。

いろいろな写真への向き合い方があるとおもうけれど、

僕は写真は、世の中を切り取る儀式だと思っている。

 

デジタルカメラは、シャッターを押した後直ぐにディスプレイに結果が出てくる。

でも、きっとぼくの身体はそこまで反射的に世の中に向かい合っていない。

 

身体を通して自分の中に世界を取り込む自分の時間と、

デジタルのアウトプットの速度のずれが、どうにもハマらなかったわけである。

 

ぼくにとって、そこにあるのは空虚な儀式の表層だけで、

一瞬の身体性も介在することはなかった。

 

フィルムを手にしても、学生時代ほど常にシャッターを押すことはできないから、

二カ月弱で撮れたのは、ようやく4本くらいである。

 

色と色、粒と粒の間にある緩やかな階調と

ノイズの混じって焼き付けられた光の中に、自分が確かに存在する。

 

一本のフィルムで切りとれる世界はたったの36回。

 

世界は、光の粒でできている。

160203 曇り

クリスマス。4歳になる息子はサンタさんに自転車をもらった。

 

子供用のBMX。TNBのPLUG14。
トリックをするペグも4つ付いていて、ジャイロも搭載。

 

要は、大人顔負けのトリックができる本格的なBMXである。

見た目もとても可愛くて、息子もぼくもとても気に入っている。

 

子供が産まれると、公園がとても身近なものになる。
近所の好きな公園ランキングをつけたり、公園で好きな街ができたりするようになる。

 

お気に入りの公園は、ブランコや砂場の他に小さなアスレチックもあって、
それが少しだけ小高い公園内の丘にあって、きれいに整備をされている。

 

通称『坂の上公園』正式名は知らない。
その公園で息子は最近自転車の練習をしている。

 

子供の遊びに付き合うということだけ考えると親は、基本暇である。

 

例えるなら、小さい勇者のレベルに合わせて、
アリアハン周辺で付き合ってスライムを倒しているレベル33の戦士のような、
そんな気持ちになる。

 

だから、寒い冬なんかはあまり行きたくないし、
長い時間は少しばかり退屈になることも多いようだ。

 

どこかのお父さんは、ベンチでスマホをいじっていたりとかしている。
お母さんは専ら井戸端会議。

 

「子供より公園を楽しめる父親でいたい」
とよく分からない対抗心が4歳児に対して芽生えたぼくは、
同じBMXを始めることにした。

 

子供が自転車の練習をするなら、ぼくも一緒に自転車の練習をしようと。
同じ自転車というジャンルで、出来ないことを一緒にできるようになろうと思ったのだ。

 

新しいことができるようになることはとても楽しいことだ。
身体が拡張していくことへの本能的な歓びがある。

 

それは、大人になってからも変わらない。

 

買ったのはストリートのBMX完成車。
WETHEPEOPLE “ENVY”

 

つい形からはいってしまうのは、ご愛嬌。
ぼくは初歩の初歩。バニーホップというトリックを練習している。

 

始めたばかりだけど、とても楽しい。
でも、まだ少ししか浮かない。

 

一方、かの有名なストライダーを2歳からおもちゃにしていた彼は、
案外すんなり自転車のバランスに慣れたようだ。

 

自転車の上達という点では完敗である。

 

ぼくらの自転車は、まだまだこれから楽しめるおもちゃになりそうだ。

今週末も、誘われる前に、僕から息子を公園に誘おうと思っている。

トップに戻る